1980年代:国家安保と政権安保の同一視

 1980年代に入り、政治体制の変換と共に、名称も国家安全企画部に変わり、中央情報部は、重大な変換を迎える。しかし、国家安保と政権安保を同一視する情報機関の伝統は、大きく変わらなかった。正統性がない政権となり、政治的安定という情報機関存立の最優先目標は、全く変わらなかったためである。しかし、情報機関内部に目をやれば、李チョルフィ氏のようなリーダーシップが退陣し、日本軍色彩の運営方式が退色したのは、肯定的現象だった。

 1980年代、安企部運営方式の最も際立った特徴は、いわゆる「関係機関対策会議」を挙げることができる。これは、情報機関である安企部が法的な根拠がないが、実質的に政治の現実を強制する統治機構としての役割を担当することを意味する。1987年1月、朴チョンチョル氏顧問致死事件に現れたように、安企部は、80年代、政治安定に影響を与える重大事件が生まれる度に、数回関係機関対策会議を開いて、対策を練る等、政局運用を主導した。これは、伝統的意味の情報収集及び分析機能を飛び越え、情報収集で政策を決定し、政策執行結果を点検調律する機能まで掌握したことを意味した。即ち、情報収集、政策対案模索、執行、モニター、フィードバック(feed-back)に及ぶ全ての過程に安企部が介入したのである。

 このように、全知全能な力を持った「オール・ラウンド・プレイヤー」としての役割を遂行した安企部の「国政介入」は、安企部の位相とイメージに大きく否定的な影響を与えた。先ずこれにより、国家情報機関に対する国民の正しい理解を難しくする状況が造成された。即ち、第3共和国と維新政権、そして第5共和国の悪いイメージと連係して、関係機関対策会議を主導する法の上に君臨する機関、情報を恣意的に運用し、国家安保ではない政権安保のために奉仕する機関だという印象が国民に刻印された。その遺産は、今でも情報機関本然の役割を遂行するのに、大きな障害として作用している。

 「国政介入」によるもう1つの否定的影響は、情報収集機能が相対的に弱体化した点である。安企部本然の機能である情報収集機能が政策樹立機能と混在したことによって、情報運用者の関心が相対的に政策樹立機能側により傾いた。情報使用権者の究極的な関心事がそちら側だったためである。それにより、情報収集機能は、相対的に弱体化し、秘密情報を秘密手段で収集する専門的な機能
としての情報収集には、粗忽になり、訓練等による情報収集のための資産を蓄積するのには、別に神経を使わなくなった。情報資産の蓄積のようなことは、長期的に時間が多く必要とされることだが、これを粗忽にしたことによって、大きな被害を受けた。

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最終更新日:2003/05/21

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